瑠璃杯 下

何時しかその場にいた一同の口から啜り泣きの
嗚咽が洩れていた。それは二人の身寄りに、と
言うよりもそう言う宿命を歩まねばならなかった
二人への鎮魂の祈りの様でもあった。

三年前の事であった。
サマイカーヴの住いの辺りの木立より啜り泣きが 聞こえる、と言う噂が立っていた。時には白い 影が彷徨うのを見た、と言う声もあった。
その真相を知ったのは長と教え長とヴォロンデの 母のみ。村人が総てを知ったのは其れから一年後、 ヴォロンデが死して後。
啜り泣きは、ヴォロンデとサマイカーヴが洩らした ものであった。啜り泣きと言うには正確では 在るまい。肉欲の愉悦の声だ。
そして直ちに三人の賢者によって二人は遠ざけ られた。ヴォロンデは遠く都の貴族に仕える事と なり、サマイカーヴは正式に教え長の後を継ぐべく、 東の地の学び舎に赴く事となった。

「行儀見習と思うていたのが、とんだ間違い じゃった」
長が吐き捨てる。
「却ってヴォロンデの咎を重くしてしもうたの じゃ。夜毎身体は引き裂かれて居ったと言う
…惨い話しじゃ。いっそ添い遂げさせた方が 良かったと、今でも悔やんでますじゃ」
一際高く、其の若者の母は泣く。そして、 悲劇は続いたのだという。

「…サマイ…サマイ…」
呼び声にさっと跳ね起きた。まさか、此処に
居る筈は無い。理性は否定しながらも窓を 開けて姿を探す。そして…、
「ロンデ!如何して…」
「話しは後。…寒いよ」
「ア、ああ。御免」
まさか部屋に招き入れる訳にも行かないので
外れの小屋へ誘う。今は誰も住む者とて 居ないが、寝台はまだ新しい。お互いの肌の 温もりさえあればなんとなるだろうと思われた。
深い口付け。そして、無言の内に粛々と交わりの 儀式は進む。逢えずに居た一年余の時を取り戻す かのように。
「旅で疲れたのか?随分冷え切って」
「だから、暖めてよ。サマイの熱で」
旅路を超えてきた若者の手が、年長の思い人の 熱を包む。何時果てるとも無く、儀式は続いた。
……最後に会えて良かった……
「何を言うの、ロンデ?」
……僕の命の糸はもう切れてるんだ。この 旅路との引き換えに……
「だって…こうして…」
言葉を続けようとしたが、続かなかった。 恋人が寝ていた筈の褥には、一房の髪。愛しい ロンデの黒髪のみだったから。
その夜、サマイカーヴは出奔し、行方知れずと なった。其の一月後、都より無言の帰郷をした ヴォロンデの肉体も、忽然と姿を消した。 
それ以来である。村を囲む木立で若者が神隠しに あい、暫くして後に抜け殻の様になって戻る様に なったのは。其れも、あの二人の様な友同士が…。

哀れな話だ。恐らく神隠しもあるだろうが、
村人の多くは鎮魂の意味で若者達を物怪と化した 二人に捧げたのだろう。でも、それでは二人は 救われぬ。そして、村の人々も。
「二人の鎮め、お任せ戴けまいか?」
その場の空気が張り詰める。不安。未練。恐怖。 憎悪。追憶。何れも正しき感情であるから止むを 得まい。そして、長が言葉を搾り出す。
「二人は、救われましょうか?」
私はこう答えるより無かった。
「彷徨いを止める事は出来ましょう」

二人の姿を模した彫像の前に座り、時を待つ。
そして、待ち人は来た。

『貴方も、僕達を拒むのか?』
「判らない。君達が肉の溺れ故にそうなったのか、 魂を求め合う故にそうなったのか見定めていない から」
私の心に神隠しにあった若者達の姿が映し出された。 浅ましくお互いを貪り合う…其処には魂の結びつき など無い様に思えた。
「この姿が君達の求めたものか?」
『そうとも言えるし違うとも言える。思いだけで 判らぬ気持ちを身体で感じ取るのが咎だという ならば、何故ロンデは肉欲に裂かれて死んだ?』
私の身体を引き裂く様に風が通り過ぎる。時折 悲鳴をあげながら。
「彼等のこの姿は、」
『此処に迷い込むと同時に彼等が自ら交わりだした。 押さえていた気持ちが噴出したのだろう。其の 生気を糧にしてサマイと僕は存在してきた。 でも、もううんざりだ。こんな糧で生きて 行くのは』
一方的な肉欲に裂かれて旅立たざるを得なかった 若者の悲鳴。
「せめて、安らかな終わりを」
瑠璃杯に汲み取った血潮を像にかけ、彼等の最後の 糧とした。一転俄かに掻き曇った空が、又俄かに 晴れ渡ってゆく。像のたもとに転がるは二つの髑髏。
                    
此れは祈りの勝利ではない。誰よりも良く私は 知っていた。だからこそ、村長にさえも告げず 旅立ったのだ。
彼の地には二つの髑髏と瑠璃杯を葬ってきた。
そう、それで充分だ。馬鹿げた追憶なぞ、二人には 益も無い。
そして私の懐には二人の前歯が一本ずつともう一つの 瑠璃杯。此れは二人の未練を晴らす為。
遥か東の地、心も身体も結ばれし友たちが安らぐと いう地に、彼等を安んじて葬る為。

                    (劇終)